開こんのあゆみ

高鷲小学校の南東にある山を二十分ほど登った上に一面の田が広がっていますここが長野新田と呼ばれる所です。ここは向鷲見地区の住人の為に谷口嘉一という人が自分の財産を投じて開こんを始めましたその当時(大正五年)の向鷲見地区は耕地不足が大きな悩みでした自分達が一年食べられる米もとれずとても困っていたそうです

 工事の様子
大正時代となっても機械はまたなく人の手でほとんどの仕事が行なわれました。

 木を切る・・・のこぎり、なた
 木のかぶをほる・・・くわ、つるはし
 木のかぶや土を運ぶ・・・もっこ車(丸木を切って作った物)人が引っぱって使った
 
 土地を平らにするときは水を利用してはかったそうです。
 こうした苦労が十四年間も続きましたが、谷口嘉一氏が工事を思い立ってから後始末が終わるまで約三〇年もかかったそうです。その結果、向鷲見地区の三十五戸を中心とした家々の人々の一年間の食料の九十%を収穫出来るようになりました。

開こんのあゆみ
大正5年 谷口嘉一、開こん運動を始める。
県へ開こんの許可を申し出る。
 (何回も県へ許可するように申し出る)
 (嘉一、自分の山林を10数ヘクタール売りつくす)
8年 県が調査にのり出す。
 (切立川下流地域から反対の声が出たが、解決する。)
10年 開こんの許可がおりる。工事の一割にもみたない補助金がでる。(9月)
開こんの工事を始める。(10月)
12年 第1期工事、岩本谷から用水路をひく。
 (第2期工事へ入る。)
13年 水不足のため、平沢谷からも水をひくように計画を変える。(6月)
14年 平沢谷からの用水路2キロメートルが完成する。
昭和5年 長野耕地整理組合を作る。
 (初代組合長谷口嘉一)
 (耕地の開こんにとりくむ。)
10年 工事が完了する。
 (借金の返済・耕地わりあてなどの仕事がある。)
14年 工事完了届を県へ出す。
25年 長野成田碑の除幕式・記念式典が行われる。

谷口三郎さん(谷口嘉一さんの長男)のお話


(写真をクリックするとビデオが始まります)

昔は向鷲見で100件のうち10件ぐらいしかお米が食べられる家が無かった。それではダメだと言うことで私の父、嘉一が長野に田を作ってみんながお米を食べれるようにならないかと考え県庁まで苦労してお願いに行ったそうだ。昔は、なかなか県庁にはいけずよほど力のある人に頼んで5年かかってようやく工事が始まったが、機械が無くほとんど手作業で大変だった。また、工事費用も補助金では足りず自分の財産を処分したり親戚から借りたりしてとてもつらい思いをした。私の代になってもその借金は返していったんだよ。長野の田や畑は30年がかりで出来て向鷲見の人たちから喜んでもらえたが家族は、大変だったよ。


話を聞いた感想
 今年、私達五年生は、総合的な学習でお米を作っています。ほとんどの作業は、機械でしました。昔の人達は、それをすべて手作業でやったんですね。とっても大変なことだと思います。今の私達にやれと言われてもできないです。嘉一さんは、自分の財産を使って向鷲見の人のためにお米を食べさせようとしたことは、普通の人には出来ないことです。そんな人が、私の友達のひいおじいちゃんだと知りうれしかったです。

長野成田碑 現在の長野新田


皇居にて勲六等單光旭日章を授与されました
谷口嘉一さん 昭和42年秋の叙勲賜謁記念